岡本かの子の文学

岡本かの子って?

 岡本かの子という小説家を知っていますか?大阪万博公園にある太陽の塔の作者で「芸術は爆発だ!」で有名な岡本太郎の母であり、50歳目前で亡くなる直前、つまり晩年の数年間、小説家としてめくるめくかの子ワールド作品を次々と生み出しました。太郎も相当キワモノ的な芸術家でしたが、母の方も並ではない。夫と住む家に自分の愛人である男も住まわせたり、家族旅行に愛人も同行させたり、夫と愛人に看取られたりなど、奔放です。しかし、だからこそ、夫婦の愛、愛人との愛、母性愛、子や愛人を亡くす悲しみ、宗教に救いを求める心、最後のよりどころとした小説への思いなど、過多にうごめく作家だったとも言えるでしょう。

文学作品と〈場〉、そして〈聖地巡礼〉

 文学作品の舞台となる土地は、作品によっては、その作品にとって替えの効かない、抜き差しならない〈場〉でもある。私はこれまでにそれを味わうべく文学的な〈聖地巡礼〉をしたことが何度かあります。例えば高橋たか子『誘惑者』の火山に飛び込み自殺をする友人を見届けについていく主人公の伊豆大島の旅をなぞらえた旅など、単に作品の舞台となっているだけでなく、その場だからこそ成り立つ場に踏み入ると、舞台となる土地とともに作品の世界観、真髄にも触れた気分になり、なかなか味わい深い旅ができます。いつか、林芙美子『浮雲』の主人公がもだえ苦しみながら死んでいった屋久島の森の中を聖地巡礼したいともくろんでいます。

岡本かの子と〈川〉

 というわけで、岡本かの子作品にとって抜き差しならない〈場〉はどこだろう?と思案したとき、思いついたのは〈川〉でした。東京下町の運河だったり、故郷の多摩川だったり。どこからか流れて来て、決まった道筋でしか、そして一方向にしか行けない不自由さがあって、そして留まることも許されずに流れどこかに去って行く。〈巡礼〉ならずとも〈巡る〉と思わせる動きを、〈川〉という場は水の流れそれ自体が見せるのです。海にはない、川ならではの本質がここにはあるでしょう。そしてかの子で〈川〉が重要な場となる小説作品と言えば「川」「河明り」「生々流転」。「川」の主人公は川のほとりのお屋敷に住むお嬢様。川を越えて嫁に行くことになった。お嬢様を慕う下男は、嫁入り道具を川向こうに渡すための橋の建設を監督するのが務め。だけど橋が完成してしまったらお嬢様はお嫁に行ってしまうというジレンマ。橋が完成し、主人公が嫁に行った後、下男は死んだ。数十年後、主人公は下男のメモを見つける。そこには「川の神様はいう 橋を流すより、身を流せ」と書いてあった。「橋を流すより身を流せ」。良くないですか?このセリフ。下男、流したんだね、己の身を。このセリフ、しびれます。結末部にはこう書いてある。「川のほとりでのみ相逢える男女がある」「かの女は、なおもこの川の意義に探り入らなければならない」と。分かるような分からないような。だけど、川が本質的な何かであり、文学作品にとっての〈場〉とは単なる舞台ではないのだということを思わせます。亡くなる直前の超大作「生々流転」はあらすじから意表をつきます。女主人公は母が亡くなって天涯孤独の身の上となった後、元乞食で後に社会的に成功をおさめた亡き父の「元の根に帰る」という宿願を叶えようとしてか、経済的に苦しいわけでもないのに、複数の男に言い寄られている小悪魔なのに、今の暮らしを捨てて、自らみすぼらしい乞食となって多摩川に沿って流転していきます。はっきり言ってわけが分からない。だけど、とにかく流転、生きるということは流転……そのイメージの川にたゆたうことはできます。私はいまだにこの作品をどう読み解けばいいのか分かりません。でも、かの子にとって〈川〉が彼女の本質と抜き差しならぬ関係にあることは分かります。文学に限らず芸術作品を読み解こうとしたら、こういう格闘に苦しめられることにもなりますが、それが醍醐味でもあります。また、人間に対して〈場〉というものがどれほどその人の核を形成することにかかわっているかということも思わせられます。

かの子のフィレンツェを聖地巡礼

 かの子は本格的に小説家としてデビューする直前の数年間、ロンドンやパリ、ベルリンで過ごしました。かの子のヨーロッパ体験は様々な作品に影響が見られるのですが、かの子の芸術家としての立脚点の核となったのは、私はフィレンツェ体験ではないかと考えています。フィレンツェにはヨーロッパからの帰路中の半日しか滞在していない。しかしそこで見たものが、小説家・芸術家としての己を認める契機となったのです。随筆「桃のある風景」には、かの子が少女期からずっといかに繊細で独特の感性を持ち、生きづらい気質のまま過ごしてきたか、何に対してなのかもわからぬままの「あこがれ」や「渇き」がずっと自分の中でうず巻いていたことが語られ、「私は自分が人と変っているのにときどきは死にたくなった。しかし、こういう身の中の持ちものを、せめて文章ででも仕末しないうちは死に切れないと思った」と言っています。そんな娘時代の回想がなされたあと、一行あけて、結末部にそれまでとは一見関係がないように見えるパラグラフが置かれます。

後年、伊太利フローレンスで「花のサンタマリア寺」を見た。あらゆる色彩の大理石を蒐めて建てたこの寺院は、陽に当ると鉱物でありながら花の肌になる。寺でありながら花である。死にして生、そこに芳烈な匂いさえも感ぜられる。私は、心理の共感性作用を基調にするこの歴史上の芸術の證明により、自分の特異性に普遍性を見出して、ほぼ生きるに堪えると心を決した。
 ――人は悩ましくとも芸術によって救われよう――と。

 私はこの文章を初めて読んだとき、感極まって泣いてしまいました。何かよく分からないけど、かの子はだから小説家として生きていくことを決意したんだと思った。芸術家の、表現にたずさわる者の切実さに触れた気がしました。これが起きた現場を訪れて何かを感得したいと思い、私はイタリアに行きました。そして、サンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂の前に立ち、私も「生きるに堪える」と思えました。数百年も前に数百年かけて聖堂を建てた芸術家たち、約九十年前にこれと繋がったかの子、そして今ここでそれを目にしている私。私がこの〈場〉にいたことは、永遠にかの子とも芸術ともつながり続けるためのよすがとなる、そう確信しました。そして現在、まとまった時間がとれないので遅々として進まないのではありますが、かの子文学におけるこのフィレンツェの痕跡とかの子が小説を書くとはどういうことかを解明すべく、かの子作品を読み進めています。また、人にそんな体験をさせうる〈場〉(場合によっては時代も込みの時空間)というもの、それをもたらす〈旅〉と文学との関係にも考えを巡らせているところです。

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