常に複数の研究テーマを追いかけている。そのなかで、最近、論文の形になることが多いテーマがバンクシーだ。バンクシーは説明しにくい。君はバンクシーを知っているだろか。僕は、知らない。どんな顔をしているのか、何歳なのか。僕は、知らない。どうやら、英国人では、あるらしい。そもそも「バンクシー」は本名なのか。本名では、ないらしい。個人なのか、集団なのか、僕は、知らない。説明しにくい。だから説明したくなる。
ところが有名だ
ところがバンクシーは有名だ。新作が「発見」されるたびに、なぜか、世界ネットの報道で取り上げられる。BBCやCNN、たまには日本の報道にも登場する。東京都江東区「日の出駅」近くの防潮扉に描かれた、バンクシー作品が、「発見」された。ネズミの落書きである。2019年1月17日、都知事は、うれしそうに、ネズミの落書きと写真に納まった。その後、盗難騒ぎを避けるため、ネズミの落書きは取り外され、都が保管しているらしい。都庁で公開されたこともある。僕の知る限り、それは、新作ではない。2011年に翻訳が出ている『Banksy Wall and Piece』に、その写真が載っている。だから、「発見」でも、おそらく、ない。
その3カ月半ほど前、2018年10月5日の出来事も、日本でたびたび報道された。後日談も含めて、少しややこしいが、紹介しておこう。この日、ロンドンのサザビーズで、バンクシーの「風船と少女(Girl with Balloon)」(2006)が、100万ポンド(当時レートで約1.5億円)で落札された。ところが、額縁に仕組まれたシュレッダーにより、落札と同時に、作品の下半分が短冊状に切断されてしまった。バンクシーは、出来事の一部始終をインスタグラムに投稿している。後にこの作品は、「愛はごみ箱の中に(Love is in the Bin)」と改題され、ドイツの美術館で展示された。
今年(2024年)に入っても、3月にはロンドンで大きな「木の壁画」が発見され、8月にはロンドン動物園の周辺で9点の連作が発見された。どちらの出来事も、日本でも報じられている。他にもあるのだが、とにかく、バンクシーの新作が発見されるたびに、多くの言語で報道され、作品の行方が注目される。説明しにくいバンクシーが、いつまでも動いていて、しかも有名である。それを説明したくなるのは、研究者の性(さが)以外の何ものでもない。
「問い」を創る
研究は、「問い」を創ることから始まる。「問い」を創る以上、それに答える準備も必要だ。どんな学問領域の、どんな考え方(あるいは理論)を使ったら、「問い」に答えられそうかを考えるのが準備だ。「問い」は意外に難しい。「バンクシーは誰か」。正体が分からなくても「バンクシー」は「バンクシー」だから、この「問い」は、とりあえず保留。とはいえ、誰かが、「バンクシー」を「バンクシー」にしておかなければ、バンクシーはいない(ことになる)。ならば、「バンクシーがかぶっている『バンクシー』という仮面は何だ」。「誰が、バンクシーに仮面をかぶらせたままにしているのか」。これらには、答えるための準備ができそうな気がした。はじめの「問い」を「仮面性」、もうひとつを「共犯性」と呼ぶことにしよう。「バンクシー作品」とはいえ落書きである。ならば、落書きをした者は取締りの対象であり、落書きそのものは消されるのではないか。「なぜ、バンクシー作品だけは例外なのか」。「公共性」がキーワードになりそうだ。いるかいないかも分からないこの面倒くさいバンクシーの作品が、高額で売れる。「なぜ、こんな作品が売れるのか」。「市場性」の問題、と名付けられそうである。
1本目の論文「バンクシーが提起する問題群:『仮面性』、『公共性』、『市場性』、そして『共犯者』―『トリックスター』を手掛かりに―」は、こうして始まった。「トリックスター」は、また後で出てくる。2本目の論文「バンクシー作品を巡るポリフォニー」の時は、バンクシーの新作が発見されるたびに、「落書き批判」、「迷惑だから」、「うれしい」、「楽しい」まで、多様な反応が、同時に起こるのが気になった。「なぜ、そんなことが起こるのか」。これを「問い」にした。多様な賛否両論が生まれるにもかかわらず、次第にそのバンクシー作品は受け入れられていく。その不思議でもある。もともと芸術作品とされている絵画への、評価の変化というのとはかなり違う。バンクシー作品の多くは、そもそも「落書き」であり、それを描くのは違法性のある行為である。ところが、「落書き」で片づけられず、むしろ色々な意見が生まれてくる。これを「ポリフォニー」というだが、これも後で出てくる。書き上げたばかりの3本目の論文「『バンクシー現象』というコムニタス」では、端的に、「バンクシーが『バンクシー』として作品を発表し続けることができ、それが『バンクシー作品』として受け入れられ続けているのは、なぜか」を「問い」とした。この「バンクシーが『バンクシー』として作品を発表し続けることができ、それが『バンクシー作品』として受け入れられ続けている」状況を、この論文では「バンクシー現象」と呼んでいる。「コムニタス」も、また後で出てくる。
研究者にはそれぞれのスタイルや方法論がある。僕の場合は、ある出来事(あるいは現象)を、ミクロ(小さな部分)からマクロ(大きな全体)に向かって、いくつもの「問い」を創り、それに答えていくことが多い。バンクシーの場合も、第1論文では、バンクシー現象(この言葉をはじめて使ったのは第3論文だけれど)を「要素」に分けて考えた。第2論文では、バンクシー現象を、バンクシー作品の鑑賞者の反応という局面から考えた。そして第3論文では、バンクシー現象全体を、それに関わる人間集団のあり方から考えている。方法論はかなり乱暴だ。学際研究(学問分野を横断した研究)中心の大学で学生・院生時代を過ごしたせいもあり、テーマに応じて、学問領域やそこでの理論を選ぶ癖がある。
答える準備
次は、答える準備である。「後で出てくる」と言ってきた、「トリックスター」、「ポリフォニー」、「コムニタス」は、いずれも、答えるために準備した「道具」(理論あるいは考え方)の名称である。僕の方法論はかなり乱暴なので、この3つは少しずつ違う学問領域で見つけた「参照点」である。「参照点」というのは、その時書いている論文が、単なる思い付きではなく、時間的にも空間的にも、一定の一般性あるいは説得力を持つものであることを証明するために使う、拠り所のようなものだ。
「トリックスター」は、「いたずらもの」あるいは「道化」といった意味を持つ言葉で、文化人類学者の山口昌男が、演劇論、見世物論などの領域で多用した考え方である。簡単に言ってしまえば、バンクシーは、トリックスターのような存在だということだ。おかしなことはするが、笑いのなかで、それは許され、しかもそこから何か新しいもの(あるいは「発見」)が生まれる。「ポリフォニー」は、「多声性」と訳されることの多いロシアの文学批評家バフチンが提唱し、その後、フランスを中心に活躍した批評家ジュリア・クリステヴァが広く紹介した考え方だ。バンクシーの新作が見つかると、たまたまそこに居合わせた人は、日常の役割や立場とは無関係に、とりあえず色々な事を言い、笑う。端緒だけを簡単に言うとそうなる。最後の「コムニタス」は、イギリスの社会人類学者ターナーが唱えた理論で、社会秩序のあり方の多様性を説明している。バンクシー作品は、常に、通常の社会秩序(「構造」という)とは別の社会秩序(「反構造」という)を生み出すきっかけとなっており、それが例えば、バンクシー作品は落書きであるけれど消さない、といった「例外」を生み、それが次第に、「例外」ではなく「あたりまえ」のことになっていく、というのが大きな筋だ。実はこの他に、第1論文では、統合失調症を説明したベイトソンの「ダブルバインド」を参照したり、第3論文では、フランス人キュレーターであるブリオーの「リレーショナル・アート」を参照したりしているのだが、話が複雑になるので、ここでは紹介するだけにしておく。
こんな「道具」を使って「問い」に答えていく、というのが、僕の基本的な研究のスタイルであり、その成果物である論文の書き方、ということになる。そして、その「答えていく」プロセスが、そのテーマに関する僕の思考である。
思考するということ
僕はテーマに応じて思考のスタイルを変えている。第1論文では、バンクシー現象を要素に分解して、ちょうどモジュール構造をした装置をモジュールごとに分けるように、それぞれの仕組みを記述したあとで、組み立て直している。第2論文では、鑑賞者の反応を、鑑賞者がバンクシー作品を見た時点を起点として時系列で並べてみた。第3論文では、コムニタスに関して、ターナーが構想した、その構想に従ってバンクシー現象に見られるコムニタスの側面を追いかけた。
他のテーマでも、こうした3つのスタイルや、証明問題を解くようなスタイルなど、幾つかのスタイルを使っている。ただ、どんなスタイルをとっても、必ず一度は行き詰まる。思考が硬直して、堂々巡りをするか、先行研究の方法をそのまま繰り返しているだけになってしまう。そんな時は、現代アートを見に行くことにしている。何かが見つかる事はめったにないが、頭のマッサージにはなる。ここで見ている3本の論文を書いている時にも、何度となく美術館や芸術祭に足を運んでいる。テーマがバンクシーなだけに、そんな時に思いついたこともある。例えば、ブリオーの議論が、第3論文と繋がりそうだ、と思ったのは、長野県立美術館でダリ展を見ている時だった。ダリとは何の関係も、多分、ない。
では、3つの論文を通して何が分かったのだろう。それぞれの論文で分かったことは、結論に書いてあるから、関心のある向きはそれを読んでもらうとして、全体として、もしかするとそうかもしれない、と思ったのは、バンクシー現象には、「例外」を作り出し続け、それを「あたりまえなこと」に変換し続ける仕掛けがあるのかもしれない、ということだ。
お分かりだろうか。バンクシー研究の結論は、次の研究の「問い」になってしまう。要するに、説明しにくのである。だから、説明したくなる。